相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:本願力にあいぬれば 空しく過ぐる人ぞなき(2019年11月 1日)

本願力にあいぬれば
空しく過ぐる人ぞなき

 御本山に初めて出仕をさせていただいた日から大変お世話になった大先輩が、9月26日に往生されました。去年の本山御正忌報恩講でお目にかかったときには大変お元気そうだったのですが、癌を患われたとのことでした。大変ショックで連絡をいただいた晩はあれこれ考えてしまい寝付けませんでした。

 10月1日、2日とお参りさせていただいたのですが、1日のお通夜から戻ってみると1通のハガキが届いておりまして、差出人を見て本当に驚きました。
亡くなられた先輩からのお手紙だったのです。消印は9月30日でしたからご親族のどなたかが投函してくださったのでしょうが、先輩がご存命中に印刷をしてくれていたのだと思います。
そのハガキは「はがき伝道」というタイトルで177号とのことでした。私が頂いたのは初めてでしたが、長い期間をかけて御門徒さんに法を説かれておられたのでしょう。

 私の頂いたハガキには仏教詩人として知られる坂村真民さんという方の
≪いのちの張り≫という詩が紹介されておりました。
    「大切なのは いのちの張り 恐ろしいのは この喪失
     懸命に 一途に 鳴く 虫たちの 声 声」
という詩でした。

 あぁ先輩も死ぬのが怖かったのだな・・・と思いました。しかし、そのあと何度もこの詩を読み返して大切なことに気がつきました。命の喪失、死ぬことが怖いとは書かれていません。いのちの張りを失うことが恐ろしいと書かれているのでした。いのちに張り合いを持って日々過ごすことが大切なのだとの先輩の最後の教えだと思いました。

 皆さんもそれぞれ何かしら張り合いを持って毎日お過ごしのことでありましょう。「仕事が張り合いで、何か大きな事をやり遂げたときには天にも昇る気分です。」「孫のが生きがいで、孫のためになにかしてあげられることがなによりも張り合いになっています。」「年に一度、遠方にいてなかなか会えない家族との家族旅行が張り合いです。」などなど。確かにそういうことが張り合いになって前を向いて歩んでいることもありましょう。しかし先輩が坂村真民さんの詩で伝えたかったのはそういうことではありません。これらのことは場合によっては失われてしまうのです。仕事を失敗してリストラされたり、怪我や病気で仕事を続けられなくなったらその張り合いは消えてしまいます。孫は可愛いと聞きますが、それも言うことを聞いてくれている間のことではないでしょうか。嫌われたり背かれたり裏切られたら途端に張り合いを失うでしょう。家族旅行も同じように何らかの理由で行けなくなれば張り合いを失います。

 そのような順境なときには張り合いになるが、逆境になると失われてしまうような、状況によって左右されることを張り合いだとおっしゃっておられるのではないのです。いのちそのもに張りを感じて日々を暮らすことが大切なのです。

 先輩が信じ悦び門徒さんがたにも説かれておられた浄土真宗ですが、親鸞聖人は天親菩薩(てんじんぼさつ)の浄土論(じようどろん)から
「観仏本願力(かんぶつほんがんりき) 遇無空過者(ぐうむくうかしゃ) 能令速満足(のうりょうそくまんぞく) 功徳大宝海(くどくだいほうかい)」
のお言葉を以てお示しくださっておられます。
このお言葉を高僧和讃では
「本願力(ほんがんりき)にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき
 功徳(くどく)の宝海(ほうかい)みちみちて 煩悩(ぼんのう)の濁水(じょくすい)へだてなし」
と優しくお説きくださいました。

 私たちのエゴから生まれる状況によって有ったり無くなったりするような張り合いではないのです。阿弥陀如来のこの私を救わずにはおられない、必ず浄土に救い取るぞとの他力の本願に出会えた人は、誰ひとりとして空しい人生を送る人はいないとお示しくださいました。けっして死んで浄土に往けるから良かったねなどという話しではないのです。今この時に煩悩具足で罪悪深重の凡夫の私に阿弥陀如来の方からはたらきかけてくださっておられるのです。この阿弥陀如来からのはたらきかけが抜け落ちてしまうと浄土真宗ではなくなってしまうのです。この私を凡夫のままですくいとってくださる阿弥陀如来の本願力回向に出会うことができた人は、正しくいのちそのものに日々張り張りとした生活が開けてくるのであります。先輩は若くして亡くなられましたが決して空しい人生を歩んだのではなく張り張りとした充実した人生を歩まれた方でありました。
南無阿弥陀佛

 

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