相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『悲しみは 悲しみを知る 悲しみに救われ 涙は 涙にそそがれる 涙にたすけらる』(2018年12月 1日)

悲しみは 悲しみを知る 悲しみに救われ
涙は 涙にそそがれる 涙にたすけらる


 テレビを観て感じたことを書く機会が多く、テレビばかり観ていると思われそうですが、今月もテレビを観ていて感じたことを書かせていただきます。


 チコちゃんに叱られるというNHKの番組を観ていましたら「なぜ歳を重なると涙もろくなるの?」という質問が出ました。確かに私自身もかなり涙もろくなってきたようでテレビや映画や本などでも、実際体験していることでも涙が出てしまうことが増えました。チコちゃんの答えは「歳をとると脳のブレーキが緩まるから」とのことでした。


 番組の中では、10代、20代、30代・・・60代と、それぞれの年齢層の人たちが集められ、様々な映像を観させられます。
「鉄棒の逆上がりの練習をお父さんに教えてもらって頑張っている少年の映像」この映像には子育て世代の方が涙しました。
「年老いた父親が家族のためにマグロ漁をしながら頑張っておられる映像」これは子育てを終えた老齢の方が涙されました。
最後に「海鳥の子供を巣立たせるために親が逃げ回り、それを子供が追いかけている映像」これは誰も泣きませんでしたが感動はされている様子でした。
しかし、10代、20代の若者はそれらの映像を面白い、楽しいものとして観ていたそうです。逆に高齢の方々は感動、悲しい、辛いものとして観ていたようです。この感情の違いが起こる理由として、歳をとることによって高まる能力「共感力」というものがあげられていました。歳をとることで様々な人生経験を積み他人に共感する力が増すというのです。相手に共感をすることで共感力は高まっているのに、脳のブレーキが緩んでいるために抑制が効かなくなり結果涙してしまうのだそうです。
涙もろい人は、自分の経験則から相手の身になって考えてあげることのできる優しい人なのかもしれません。


 この番組を観て、なるほど勉強になるなと思い、共感と言うことに関して考えてみました。確かに私たちは共感しなければ周囲との生活が上手くいかないでしょう。人に共感をしたり、共感を求めたりすることで世の中は成り立っているとも思います。共感する心がなければ家庭や社会はとんでもないことになります。そこでインターネットを使って共感という言葉で検索をかけてみました。するとある言葉が数多くヒットして参りました。それが今月の掲示板の言葉
「悲しみは 悲しみを知る 悲しみに救われ
 涙は 涙にそそがれる 涙にたすけらる」

という浄土真宗の金子大栄先生の遺されたお言葉です。そこでヒットしたページをいくつか拝見させていただいたのですが、ビハーラやホスピスでお手伝いなさっておられる方のページが多かったです。


 日々、癌などの病で死を待っておられる方の身に寄り添い、その方の悲しみや辛さ、大切な方の心に寄り添い共感しながらそばに付き添われておられる方々の心を表現した尊いお心でありましょう。そのお心を否定など私ができるはずもありません。ですがこのお言葉をそこで終わらせてしまうと本当に大事なことを見失います。


 このお言葉は歎異抄後序の親鸞聖人のお言葉を金子大栄先生が優しい言葉で表現してくださった言葉です。
親鸞聖人は「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ。」とよく仰っておられたそうです。このお言葉を金子先生は上の言葉で表現なさいました。


 悲しみを知る悲しみ、涙にそそがれる涙とは、私たち凡夫の抱える捨てることも離れることもできないどうにもならない業。どうにもならない悲しみや苦しみ。そして自分の努力ではどうにもならない、助けを求めずにはおられない私たちのことをすべて知り尽くしてくださった上で、だからこそ救わずにはおられん。だからこそ助けずにはおられんと誓ってくださった阿弥陀如来の悲しみであり、涙なのです。


 同じく歎異抄の第4条では「慈悲に聖道、浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。」とあります。我々凡夫の、誰かを哀れみ、悲しみ共感していく力では思うように救うことはできないのだとお示しくださいました。ただ浄土の慈悲、阿弥陀如来の本願のみが私たちを救い助けてくださるのだと聖人はお説きくださいました。


 誰かに共感し悲しみ涙していた自分の、どうにもしてやれない、どうにもならない自身の現実に直面し自分の限界を知ったところに、その私を悲しんでくださったおられた、涙してくださっておられた如来の本願をいただけるのでありましょう。我々の共感力は自分の都合でいつでも変化します。ともすれば「してやった」との傲り高ぶりに変わることもあります。そういう不確かなものではなく、いつでもどこでも何があろうと私のことを悲しみ、涙してくださっておられた如来の大共感力とも言いましょうか阿弥陀様の大悲の本願にふれたとき、私たちは心から手を合わせることができるのでありましょう。合掌

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