願力無窮にましませば
罪業深重もおもからず
今年も無事に当寺報恩講、そして例年6日間出仕させていただいておりました御本山の御正忌報恩講も本年は2日間だけでございましたが勤めさせていただけました。不思議なもので報恩講が終わりますとなんとなく今年ももう終わりだなぁと感じます。
さて、御本山の報恩講の一番最後の御法要である、結願日中法要(けちがんにっちゅうほうよう)のお勤めには坂東曲(ばんどうきょく)という御本山の結願日中法要以外には目にすることがない独特の念仏和讃が3首勤められます。正座をしたまま上半身を前後左右に揺さぶりながらお念仏と和讃を称えさせていただくのですが、これは親鸞聖人が越後へ流罪になる際、荒波に揺れる舟の中で一心に念仏を称えた話に由来するといわれています。上手く説明できませんので毎年11月28日午前10時より厳修される御本山の御法要にて実際に目にされてください。
今年の坂東曲の3首目は
「願力無窮(がんりきむぐう)にましませば 罪業深重(ざいごうじんじゅう)もおもからず
仏智無辺(ぶっちむへん)にましませば 散乱放逸(さんらんほういつ)もすてられず」(正像末和讃)
こちらの1首でした。簡単に説明しますと、願力とは阿弥陀如来がすべての衆生を必ず救うと願いはたらいてくださっておられるおはたらきのことです。それが無窮、極まりが無いので、どれほど深く重い罪であろうとも救われないことはないというのです。仏智は、阿弥陀さまの智慧のはたらきのことであり、無辺は阿弥陀さまの智慧のはたらきが広大無辺で、限定されることなく行き渡るということでありますから、どんな人であろうと分け隔てなく平等に救ってくださるという意味になります。散乱放逸とは、散り乱れた心の勝手気ままな行いを指しますが、散り乱れた心で自分の好き勝手に生活しているこの私達でさえも阿弥陀如来は区別することなく必ず救ってくださるのだと言うことであります。
住職を継職させていただいたこの1年、2月の法話にも引用させていただきましたが聖人が御著書「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」の結びに道綽禅師(どうしゃくぜんじ)の「安楽集(あんらくしゅう)」から引用なされた
「前に生まれん者は後を導き 後に生まれん者は前を訪え
連続無窮(れんぞくむぐう)にして 願わくは休止せざらしめんと欲す」
というお言葉が私の心にあった最大のテーマでした。私たちが阿弥陀如来の必ず救うぞ見捨てはしないとの本願を知って、それをそのまま有り難くいただき、死の問題を解決し、迷うことなく生き生きと満ち足りた日々を送り、力なくして終わるときにはうれしくも阿弥陀如来の極楽浄土へ往生させていただけるのだというこのみ教えを、浄土の教えをよろこばれた先達方から学び、それを後に生まれた者に伝えていき、どこかで途切れるようなことがないようにしなくてはならないと言うこのお言葉を胸に歩んでまいったつもりです。
そんな思いで親鸞聖人の祥月御命日に御本山でのお勤めに出仕させていただきながら先の御和讃を味わわせていただきますと、阿弥陀如来の願力が無窮であられるからこそ連続無窮が成り立つのだなぁ真に有り難いことですと気付かされ、また、先だって大学入試を受けてきた長男が小論文のテストで尊敬する人について書きなさいという問題に「親らん聖人」と書いてくれたのです。「鸞」は難しくて書けなかったのでひらがなで書いたというのです。普通の神経ならその時点で尊敬する人を変更しそうなものですが、長男は自信を持って「親らん聖人」のことを書いてきたのだそうです。内容は恥ずかしいと教えてもらえませんでした。
私が聖人をはじめ大勢の先達からいただいている浄土真宗のみ教えでありますが、弥陀如来の無窮の願力のお働きによって、私の息子にまで伝わっていることに今まで感じたことのない有り難さを感じたものです。
それらのことが一気に胸にこみ上げてきまして、
「如来大悲(にょらいだいひ)の恩徳(おんどく)は 身を粉にしても報ずべし
師主知識(ししゅちしき)の恩徳も 骨を砕きても謝すべし」(正像末和讃)
の結びの和讃も今までは力の限り声の限り発声してまいりましたが、本年は和讃のお心をひしひしといただくことができ心を込めて報恩感謝の心でお勤めさせていただくことができたました。合掌