相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『有難い お陰様で 勿体ない みんながこんな心だと いいなあ』(2016年8月 1日)

有難い お陰様で 勿体ない
みんながこんな心だと いいなあ


 先日老人ホームの職員の方から、ホームでの悩みを聞かされ、どう対応したら良いのかと尋ねられました。この方の悩みは「誰でもホームに入所された頃は男性も女性もそれはそれは喜ばれ私たちにも大変謙虚なのです。それもそのはず身の上話を聞きますと、ほとんどの人が家族から厄介者にされ、孫からも馬鹿にされ寂しい生活をしてこられた人たちなのです。あるいは誰一人世話をしてくれる人もなく一人で生活ができなくなった人たちです。それが、こんな立派な施設で職員の方々からあれこれ世話をしていただけ、エアコンの完備された部屋で食事も上げ膳据え膳で本当に幸せですと、入所の頃は誰しも喜ばれ感謝されるのです。これで文句を言ったら罰が当たるでしょうねと仰っておられた方々ですが、入所から数か月か経ちホームの生活に慣れてくると、食事も美味いの不味いの不平不満を言い出し、私たち職員に対してもああして欲しい、こうして欲しいとあれこれ要求しはじめ、そして高齢者とはいえ男と女の世界ですから、恋心を燃やし嫉妬心から喧嘩を起こすことも珍しくはないのです。どう対応したら良いのでしょうか。」とおっしゃる。


 話をうかがい、家族が厄介者扱いをしたり、馬鹿にしたり、邪魔にしたりするのも家族が一方的に悪いのではなく、嫌われるにはそれなりの理由があることに気がつきました。
大切なことは仏法をしっかり聞かせていただき、人間の"人"は支えられ生かされていると言うことで"間"は親子、兄弟、友人等の間柄に生かされていることであり、そのことに気づかされれば何事にも感謝と思いやりの心が現れてくるはずです。
感謝と思いやりの心がなければ人間とは言えないと思います。
このことに気付くためにはやはり仏法聴聞が大切なのです。それも若い内からたしなむことが大事だと痛感いたします。


 私事で恐縮ですが、私の母のことが思い出されました。今年前坊守(私の母)の5回目の盂蘭盆を迎えます。
母は熱心に聞法を悦ばれた方でありました。先代住職とは毎日仲良く仏法を語り合っておられました。先代住職の亡き後は旅行にお誘いしてもあまり外へ出たがらず、ご自分の部屋でよく仏書に親しまれ、私の書いた本を何遍も読ませていただきましたよと微笑み語ってくれたお顔が鮮明に浮かんでまいります。


 身体が不自由になられてからはベッド生活でありましたが、嫁や娘や孫達が進んでお世話をしてくれましたが、それだけではなく知人の方々もよくお世話をしてくださいました。
母はその都度仏法の悦びを語り、ささやかなことにも、有難いことです。お陰様です。勿体ないことです。ありがとうと優しく申され、ナンマンダブツ・ナンマンダブツとお念仏の中に微笑みが絶えないのでした。


 こうした母でしたから多くの人が入れ替わり立ち替わりお世話をされておりましたが、残念ながらついに声も出なくなり、後を頼むよとのお気持ちだったのでしょう。私の手に頬擦りをされながら5月10日の11時28分先代住職や有縁の方々が待っておられるお浄土へ還って行かれたのでした。
11時28分も親鸞聖人のご命日が11月28日なのでなにか因縁深いものを感じました。


 母は間違いなくお浄土へ往生されたのであり、餓鬼道に落ちたわけではありませんので施餓鬼法要の必要を感じないのであります。お盆を迎えるに当たり、母や有縁の方々の在りし日の種々のお姿を偲ばせていただき仏法聴聞の中に何事にも不平不満ではなく、有難い。お陰様。勿体ないと正しく味わえる人生を歩みたいものです。合掌

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