相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『当たり前なんか何もない 何もかもが有り難い』(2015年11月 1日)

当たり前なんか何もない
何もかもが有り難い


 皆様はどんな時に「ありがとう」と申しますか?1日何回くらい言いますか?
朝さわやかな気持ちで妻と食事をいただき、これから旅行へ出かけようと準備をしているとき、妻が急に腹痛を訴えました。掛かり付けの病院に電話をかけましたが連休中で電話に出てもらえませんでした。そこでメディカルセンターで診ていただき、レントゲン、エコー、採血などの検査をしても原因がはっきりせず、その後掛かり付けの病院に移動してCT、レントゲン、採血などの検査をして3日目にやっと急性虫垂炎、腹膜炎と診断され、その日のうちに手術を行うことができ大事には至りませんでした。ホッとしてお医者さん、看護師の方にあつく「ありがとうございました」と悦びの感謝の言葉を伝えられました。手術をして無事にうまくいくことは当たり前ではありません。有り難いことです。旅行を計画していても、急に病気、仕事、その他予期せぬ出来事などで取り止めになった経験はどなたにもあると思います。計画したことが予定通りに行われることは決して当たり前ではありません。


 ある本にこんな話がありました。博多に仙厓和尚と言われる立派な住職がおいでになりました。あるとき、檀家のお一人が家を普請され、床の間にめでたい書を掛けたいと思い仙厓和尚に何かめでたい字を書いて欲しいと頼んだそうです。和尚さんは喜んで早速さらさらと書き上げてくださったのだそうです。その文句が「祖父死 父死 子死 孫死」というものでした。何かめでたい言葉を頼んだのに死という文字をたくさん並べられ、とてもめでたいとは思えませんので、恐る恐る「和尚さん、何でこの文字がめでたいのでしょうか?」と尋ねられたのです。


 和尚さんは我が意を得たり、待ってましたとばかり「良く聞きなさい。一軒の家で一番先に祖父が死に、それから父が死に、そして子が死に、次に孫が死ぬというように順番に死ねる家庭は誠にめでたいことなのだ。」とおっしゃいました。
世の中には頼りにしていた息子に先立たれる。目の中に入れても痛くない孫に先立たれることは珍しくないのです。人生は計画通り、予定通り、順序よく運ぶことは当たり前ではないと言うことを教えてくだされたのです。ところが人は、特に健常者は何事も当たり前と思ってはいないでしょうか。


仕事に遊びに元気に精を出せる・・・当たり前でしょうか?
3度3度の食事がいただける・・・当たり前でしょうか?
定例法話や日曜礼拝に足を運んでくださる・・・当たり前でしょうか?
目が見える。耳が聞こえる。話ができる。自分の足で歩ける。手が自由に使える。夜眠ることができる。目が覚めて起きることができる。これらすべて当たり前でしょうか?


 何でもないようなことも深く味わえば有り難い限りなのです。まして人間に生まれることができたということは、こんなに不思議な、こんな偶然がよくぞ起こったものです。宝くじに当たるよりもずっとずっと難しいのです。それをなんの感動もなく、有り難いとも思わず当たり前と思ってはいないでしょうか。
当たり前を通り越し、もっと器量が良かったら。もっと頭が良かったら。もっと背が高かったらなどと思ってはいないでしょうか。


 中村久子さんのことが思い出されます。中村久子さんは飛騨高山市でお生まれになり、3才の時霜焼けがもとで両手両足を失った不自由な身体にもかかわらず、母の厳しいお育てにより炊事も、洗濯も、毛糸の編み物も、縫い物も見事にこなされるようになったのです。
その中村久子さんは「両手両足が無いことを嘆くより、人間として生まれてきた喜びをかみしめてきました。なぜなら人間であるが故に真実の教え、念仏の教えを聞かせていただくことができたからです。」とおっしゃったのです。涙して味わわせていただきました。正しく味わえばあり方ずくめ。喜びはどこにでもあるのですね。合掌。

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