相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『不可思議な 弥陀の慈光に 照らされし 尊き寿 ナンマンダブツ』(2015年1月 1日)

不可思議な 弥陀の慈光に 照らされし
尊き寿(いのち) ナンマンダブツ


 「一年の計は元旦にあり」と申します。元旦の"元"は 物事の初めという意味です。"旦"は太陽が地平線に現れるとき、すなわち早朝を意味するのだそうです。ですから元旦は1月1日の早朝を言うので昼は元旦では無いと言うことです。朝寝坊をしている人には元旦は無いのです。当然一年の計も無いと言うことになります。私は元旦だけでなく、常に早い朝の目覚めが大事なことだと思っています。ですから昔から「早起きは三文の徳、長寝は三百の損。」と言われるのでしょう。


 目覚めるとは眠りから覚めると言うことでありますが、「迷いから覚める」「自分の本質に目覚める」と言うことがあるのです。一年の計は元旦にありと言うことは、一年の計画、一年の目標は元旦にしっかり立てようと言うことだと思いますが、目標を掲げることも大切ですが、もっと大切なことは人生の目的をはっきりさせることではないでしょうか。目標と目的は違うのです。


 先日ある青年が美しい女性を伴って、この人と結婚しますと報告に来てくださいました。そして「親父が倒産させた事業を2人力合わせて復興させ、明るい家庭を築くことを目標に頑張ります。見守っていてください。」と頭を下げられました。私は辛い苦しいことも多々あるでしょうが2人力合わせてその目標に向かって歩んで欲しいと月並みなことを言って励ましましたが、この青年のように夢を持ち目標に向かって歩む姿は美しいですね。
ある老人の集いでは喜寿を迎えた方が「なんとしてもゴルフでエイジシュートを達成させたい」と目標を述べておいでになりました。
また、傘寿の元気な老人が「富士山の山頂に立って詩吟を詠うことが目標です」と語られました。幾つになっても目標を持つことは立派なことだと思いますが、目標というものは達成したときの喜びは大きいのですが、時間と共に喜びは失せていくし、目標によっては空しささえ感ずるようになるものです。
目標とはそういうものです。ですから人生には目標を持つことと同時に人生の目的をはっきりさせたいのです。人生の目的を間違えず、見失わず、しっかりつかまなければ人間として生まれることのできた喜びは味わえないと思うのです。


 私が人間として生まれることができたことは奇跡なのです。ジャンボ宝くじの1等に当たるよりも難しいと思います。私は私の父と母の結婚なくしてこの世に生まれることはできません。その父と母の出会いも不思議ですし、私の先祖は父母だけではなく祖父祖母もいました。三代先、四代先の先祖もいました。二十七代先の先祖までさかのぼりますと驚くことに日本の総人口を上回る1億3400万人を数えるのです。私には無量の先祖がおいでになったのです。
私は両親の願いと血を受けているだけではなく、無量の先祖方の願いと血を一身に受け継いでいるのです。まさに無量の寿(いのち)を賜っているのです。


 そんな尊いいのちを賜っているのでありますから、さぞかし楽しく安らかな、喜びいっぱいの人生が開かれているかと思えば、現実は厳しく、人間関係がこじれ夜も眠れず悶々とし、仕事がうまくいかず借金返済に頭を抱え、予期せぬ病に罹り何で私がとベッドで泣かねばならないのです。こうした生死の悩み、不安の世を生きねばならないのです。そして物事の道理に暗いが為に闇の世を歩まねばならない人生なのです。どうしたら救われるのでしょうか。


 親鸞聖人は生死の悩み不安を抱え、闇の世を手探りのようにして寂しく歩む衆生をなんとしても救わずにはおられないと誓われたのが阿弥陀如来なのですよ。その如来の本願に出会い、如来の智慧の光明に照らされていることに気づかされますと、そのままそのままで安心の悦びの人生が開かれるのですとお教え下されたのです。
人生の目的は如来の本願に出会い、念仏を悦ぶ身にさせていただくことでありましょう。合掌

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