相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『仏法を聞くと言うことは 人より偉くなったり 賢くなる為ではない 本当の自分に出会う為です』(2014年11月 1日)

仏法を聞くと言うことは
人より偉くなったり
賢くなる為ではない
本当の自分に出会う為です


 生きるとはどういうことでしょう?仕事上でも、遊び事でも、人間関係においても、私の身に様々な問題が起こると言うことです。
その問題は楽しいこともあり、嬉しいことも、好きなこともありますが、しかし時には悲しいことも起きます。苦しむことも、悩むこともあります。苦しみ悩んだ挙げ句人を殺したり、自殺に追い込まれることもあるのです。


 先日、田園調布の高級住宅で横浜桐峰会病院の75才の院長と30才の妻が2階の寝室ベッドで仰向けに倒れて死んでいたというニュースがありました。
院長が散弾銃で妻を射殺した後、自らも命を絶ったものと思われるとのことでした。妻を殺し自らも命を絶たれた。いったい何があったのでしょう。
親鸞聖人の「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(歎異抄第13条)とおっしゃったお言葉が浮かんできます。


 仏法を聞くと言うことはどういうことでしょうか?何の為に聞くのでしょうか?
楽しく何もかも順調なときは仏法を求めることも忘れていますが、悲しみや苦しみにぶつかると人はその解決を宗教に求めようとします。
私事ですが、ゴルフで上手くボールを打つには力を抜くことが大切なのですが、私は下手なので力を抜こう、力を抜こうと思いながらも力が入って失敗してしまうのです。すると人は私をからかって「まだまだ修行が足りませんね」と冷やかすのです。仏道修行に励んでいれば何でも思った通りにできると思うのでしょうね。
仏法を聞くと言うことは、他人より偉くなることでも、人格が向上するわけでも、思うとおりに何かを行えるようになるわけではありません。それどころか愚かな、恥ずかしい、何もできない自分に気づかされるのです。鉄は金や銀にはなれないのです。それが金や銀になろうとするから苦しむのです。鉄は鉄でいいのです。なれない私だと気づかせてもらうのです。このままで良かったと気づかせていただく為に仏法を聞かせていただくのです。


 ある方から90才の窪田さんと言われる歌人が
「老いぬれば 心のどかに すごせんと
        思いたりたり あやまりなりき」

と歌われたと聞かされました。老人になれば心穏やかにゆったりとした日々を過ごせると思われたのでしょう。それが90才になってもかないませんでしたと我が身を省みて歌われたのでしょう。これが現実では無いでしょうか。


 親鸞聖人は人生の現実を仏道修行に励みながら厳しく深く自身を見つめられ
凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(一念多念文意)と慙愧され、また御和讃には
「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし
 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」

「悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり
 修善も雑毒なるゆえに 虚仮の行とぞなづけたる」
(愚禿悲歎述懐和讃)
とうたわれ、「お念仏を悦ぶ身にさせていただいても、清浄の心はかけらも無いのです。私の心は蛇やサソリのごとく恐ろしいものを抱いているので善行を積もうと励んでも虚仮の行でしか無いのです。」と悲しまれております。


 こうした深く厳しいご自身の自覚をされたからこそ自己中心の愚かな恥ずかしい煩悩具足の凡夫を必ず救うと誓われた阿弥陀如来の本願に出会えたのです。その悦びを
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(歎異抄後序)
と涙して悦ばれたのであります。
仏法聴聞は我が身の本質に気づかせていただき、阿弥陀如来の本願に出会わせていただくことであります。合掌

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