自分の都合のみを追い求めている限り
苦しみからの解放はない
座談会の席である方が、「釈尊は人生は苦なりと申され四苦八苦の苦しみを説かれましたが、そんな話を聞いていると心が暗くなる。私は自分の生活は毎日楽しいし、人生は苦ではなく楽だと思います。」と言われました。確かに四苦八苦の話しは暗いし楽しくはありませんね。ですから多くの人は
老いることを嫌い避けようとする:種々な健康増進のサプリメントが売られ老いて益々盛んなどと言う宣伝に踊らされている方が多いようです。
病むことを嫌い避けようとする:嫌っていても病は急に襲ってきます。何で俺がこんな病になるのだとベッドで泣かねばならなくなるのです。
死を嫌い避けようとする:いくら避けようとしても死はやってくるのです。自分や連れ合いの死が現実になると死にたくない死にたくないと恐れおののくことになるのです。
老病死はお坊さんであろうが誰であろうがすべての衆生の苦しみなのです。釈尊はすべての衆生のことを問題にされたので、一部の人のことはおっしゃいませんでしたが、一部の人のことを考えますと
衰えることを嫌い避けようとする:時代の波に乗りみるみるうちに業績を伸ばし立派な家を建て、高級車を乗り回している友人が会う度に来年はどうなるか心配だとこぼされる。
失うことを嫌い避けようとする:定年を迎えた年金生活の方が老後のために残した財産が思いも寄らぬ長い入院生活で底をついたとこぼされる。親が残してくれた財産もいい気になっていたら尽きてしまったと嘆く人がいる。
これが現実ですし仏教が教えてくださるのは、「私は今日健康ですこぶる元気で明日も元気と思うのですが」「私は今日経済的にも物質的にも恵まれていて明日も恵まれていると思うのですが」それは錯覚だし、そんな保証はありませんと教えて下さっているのです。
仏教は抜苦与楽を説くのです。苦しみを除いて楽を与えてくださるのです。それも一時の楽ではなく揺るぎのない楽を与えてくださるのです。揺るぎのない楽とは、私が苦しんでいるお金の問題や病気のことや人間関係などそうしたことを解決するのではなく、そうしたことで苦しんでいる私を根本的に救ってくださるのです。正しい智慧の眼によって揺るぎのない安らぎを与えてくださるのです。
ですから仏教は暗いことを説いているのでは無く真実を知らせて安らぎを与えてくださるのです。
明治期に活躍された清沢満之先生は「生のみが我等にあらず、死もまた我等なり。我等は生死を並有するものなり。」とおっしゃいました。
私たちは生を喜びプラスとし、死は忌まわしくマイナスと嫌ってきました。ですから私の大切な人の死を忌まわしく不浄と嫌い、清め塩で清めるということをしてきたのです。
健康、若さ、豊かさを追い求め、病気や老いを嫌い、死はまっぴらとして豊かな便利な快適な生活が人生の幸せと信じ歩んできました。確かにそのことは幸せなことですが、問題は自分中心に自分の都合ばかり追い求めてきたことです。仏法聴聞の中に正しく智慧の眼をいただきますと親鸞聖人が「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」とお示し下されましたが、ああそうでしたそうでしたとお念仏がこぼれます。
私は今まであまりにも自分本位に豊かで快適な便利な生活を追い続けてきたがこのあたりで少し考え直して「小欲知足にして染恚痴なし」の釈尊の金言を味わうべきなのだと思うのであります。合掌