相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『自分の本分をわきまえ 他と競うことなく 自分の為すべき事に励む』(2013年10月 1日)

自分の本分をわきまえ
他と競うことなく 自分の為すべき事に励む
そうした人生には輝きがある 悦びがある


 中学生の時、作詞家になろうと決めた少年が、作詞を続けながら必死に働かれたといわれる。悲しく、辛いことに45才の時、自動車の事故で頸椎を損傷し首から下がまったく動かない身体になってしまい、5年、10年と引き籠もり、世に出る勇気と意気地を無くしていたが、ある日ふと気付いたといわれる。自分という字は「自らを分ける」と書くのだと。働いていた自分と動けない自分を分けて生きれば良いのだと気付き、身が軽くなったといわれる。


 それからは少年の時抱いた夢を叶えようと動かぬ身体に力を与え、なりふり構わず様々な働きかけをされ、今夏「冬の風鈴」という作詞でレコードを出す事が出来たとのこと。古希を過ぎて夢が叶った。今「生きてきて良かったと」と喜びをかみしめていますと毎日新聞の「男の気持ち」に投稿された74才の細野寿一さんの記事に心動かされました。


 この方が仰るとおり自分という字は自らを分けるのでしょう。働けていたときと、働けない動けない今を分けて生きれば良いのだと気付き身が軽くなったといわれる。とかく人は事故や病気で身体の自由を失うと、何故だ、何故私だけがこんな事になるのだと嘆き、苦しみ、引き籠もってしまう方が多いようですが、この方は現実の姿を逃げずに苦悩と直面し、向き合って素直に宿業として受け入れられたとき、身も軽く心が楽になれたのでしょう。心が楽になれたから夢を捨てまいと励み続けられたと思うのです。素晴らしいですね。


 自分という言葉は「自らを分ける」という意味の他に「自らの本分」という意味があります。自分の本分とは私が為すべき、尽くすべき本来のつとめということです。私が僧侶として、住職として為すべき本来のつとめは何であるか?私が亭主として、父として為すべき本来のつとめは何であるか?このことを忘れず分をわきまえることが大切だということだと思います。自分なりに背伸びをせず、格好付けず、見栄を張らず、自分の為すべきつとめを精一杯させてもらえば良いのです。自分を買いかぶり欲をかくから自分の為すべき事を間違えて失敗するのです。


 阿弥陀経の中の「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」という言葉が浮かんできました。青い蓮の花、黄色い蓮の花、赤い蓮の花、白い蓮の花種々あるから良いのです。種々な色があるからそれぞれが引き立つのです。青い蓮が、黄色は良いな、赤は羨ましいな、白い蓮になりたいなとは思わないのです。青は青、自分は自分、自分の本分をしっかりわきまえ、他と競うことなく懸命に輝いているのです。だから美しいのでしょう。私も本分をわきまえ、当寺の住職として与えられた使命を全うするよう聞法の中に勤しみたいと思います。合掌

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