死を忘れず 今日を生きる
別れを忘れず 事にあたる
くも膜下出血で奥さんを亡くされたAさんが3回忌法要の依頼で来寺されました。女房は風邪ひとつひいたこともなく本当に健康で家庭のことだけではなく、店のことまで実によく働いてくれたのです。時には温泉でも一緒に行きたいと思って予約をした矢先のことで本当に悔やまれます。女房が死ぬなんて考えたこともなかったし、女房とあんなにあっけなく別れるなんていまだに信じられないのです。いつも仏壇の前に座って本当によく尽くしてくれてありがとう。苦労ばかりかけてごめんねと詫びてはいますが、元気な時に言ってあげたかった。と涙ながらに話されました。
ちょうど境内で蝉がミィーンミィーンと鳴いていたので私はAさんに、あの蝉は暗い地の中で5年以上過ごし、地中から這い出し成虫になるとああして元気に自分の存在を示すが如く鳴いていますがその寿命は10日ほどと言います。でも蝉は自分の命の短さを嘆いてはいないと思うし、嘆くどころかああして一生懸命鳴くことが蝉の世界のすべてなのでしょう。他に種々な世界があることを知らないし、知ろうともしないのでしょう。私たちはそうした蝉を哀れな生き方と思うけれど、案外私たちも蝉と同じような世界を生きているのではないでしょうか。そのことを若くして呆気なく亡くなられた奥さんが私たちに教えてくださったのではないでしょうか。
私たちは奥さんの死が如実に明日が無いことを教えてくださっているのに明日があると思い込んでいます。明日があると思うから他人の顔色ばかりうかがい、世間の評価が良いか悪いか気にかかり、他人との比較ばかり考えて俺の方が上だ下だととらわれてはいないでしょうか。ですから何か成功したり誉められたりすると有頂天になり、何か失敗したり貶されると落ち込んでしまうのです。正に自分を見失っていると思うのです。自由に生きることを忘れていると思うのです。
自由とは、思いのまま束縛を受けないと辞典では説明されていますが、先代住職が「自由とは自らの存在理由です」と教えてくださったことがありました。ですから自由に生きることを忘れていると言うことは、自分の生きている存在理由がはっきりしていないと言うことなのです。はっきりしないから金があれば、健康であれば、家庭が円満であればそれで良し。これらが叶えられれば幸せ。何も言うことは無い。すべてこれで良し。これが本当の幸せ。真の幸せと思い込んでいるのです。何時壊れ、失うか分からないものを"真(まこと)"と思い込んでいますが危なっかしいことです。
親鸞聖人は
「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(歎異抄 後序)とお教えくださいました。
この御教えに、そうでした。そうでした。と頷く時、生きている存在理由がはっきりしなかった私に、まことに生きると言うことはどういうことか、悔いの無い納得のいく生き方はどういうことなのかが問われてくるのです。仏法を求めずにおれなくなるのです。
仏法をどこまでもどこまでも聴聞させていただくうちに如来の本願と出会い、ナンマンダブツ・ナンマンダブツと念仏申さずにおれなくなるのです。他人の顔色をうかがうこともない。世間の評価を気にすることもない。他人と競うこともなかった。このまま、このままありのままの私で良かったのだ。すでに如来の救いの慈光の中につつまれている私でした。まことの世界に出会えた悦びここに有り。勿体ないことです。合掌