相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『光のお陰で物を見ることが出来るが 私の心はその光では見えません 仏の慈光に照らされて見えてくるのです』(2013年7月 1日)

光のお陰で物を見ることが出来るが
私の心はその光では見えません
仏の慈光に照らされて見えてくるのです


 ある法要の時お話し申し上げたのですが「皆様、死が目の前に待ち構えていますね。残りわずかな人生ですよ。準備は出来ましたか?」頷く方もおいでになり、笑い声すら上がりました。その時申したのです。今は私が大勢の方に向かって話をしているので頷いたり笑ったりされるのでしょうが、自分のことを言われたのではない。他人のことだと思って聞かれるからだと思うのです。これが私と二人だけになって「あなたもう死が目の前ですね。準備は出来ましたか?」なんて言われたらどうでしょう。嫌なことを言う坊さんだなぁ。余計なことを言うなと思われるのではないでしょうか。怒る人もいるでしょう。


しかしこのことは本当のことなのです。人間は年齢で死ぬのでも病気で死ぬのでもないし、お医者さんの宣告を受けて死ぬのでもありません。死の縁が熟して死ぬのです。仏法には明日はないのです。仏法はすべて何事も我が身の問題として受け止めることが大切なのではないでしょうかと偉そうに話をさせていただきましたが、自分のことと受け止めていないのは私ではないか。何事も他人事の問題にしているのは正に自分でしたと気付かされたのです。


 あるボーイスカウトの団の30周年の祝辞の原稿依頼がありまして、その原稿を書かせていただく中に気付かされたのです。その原稿に私がボーイスカウト活動を志したのは調和のとれた青少年教育はスカウト活動が最適と考えたからです。なぜならスカウト活動は根底に信仰心を大切にする精神があるからです。しかし科学万能の時代を迎えた今日、物質的、文化的に夢のような生活が出来るようになったことは喜ばしいのですが、科学で解決できないことはないと錯覚に陥り、宗教の必要性が薄くなってきたことは悲しいことです。科学は悩み、悲しみ、苦しんでいる私の心の中までは踏み込めないのです。人間は物質だけで生きているのではなく、より豊かな精神生活を望むのです。と、こんなことを書いていたらマザーテレサさんのことを思い出したのです。


 もうお亡くなりになりましたが、以前マザーテレサさんが日本を訪れたことがありました。彼女は日本の国民の姿、環境、経済などを視察され「私は様々な国を回ってきましたが、日本ほど環境、物質面でこれほど豊かな国はどこにもありませんでした。しかしその日本に住む人たちの表情はどこの民族よりも貧しくて暗い。」と話されたとのことです。さらに日本人が貧しくて暗いのは信仰心がないからだと言われたそうです。インドの苦しむ人々の救済を求めて来られたのに日本人を誉めないで貧しくて暗いと感じたことを正直に指摘されたのです。その時私はよくぞ言ってくださった。本当に日本人はもっと信仰心を深めなければ。大切にしなければと思い続けていましたが、これは他人事ではない我が身のことでありました。経済的、物質的に恵まれれば幸せであると思い込んでいる私がどこかにいる。そんな私への警鐘であると気付かされたのです。


 浄土真宗を我が身の問題としていただくと、私ほど浅はかな、恥ずかしい、愚かな者はありません。煩悩具足の凡夫でありました。などと分かったようなことを言いますが、他人から本当にそうですね。お前ほど愚かな者はいませんね、なんて言われたら途端に腹が立つのです。お前は利己主義だなぁ。お前ほど自己中心的な人は見たことがないなんて言われれば、本当にその通りですとは思えずお前に言われたくないと反論をしてしまう私で、どれだけ仏法を聞かせていただいても凡夫は凡夫で凡夫から抜けきれないのです。だからこそしっかり仏法聴聞させていただき、やり直しのきかない人生、深く反省、見直しながら一日一日を大切に生きたいと思うのであります。如来様はそんな私の幸せを願い続けてくださっていたのですね。嬉しいことです。合掌

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