相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『親の財は競っても受け継ごうとするが 親の願いを受け継ぐ者は少ない』(2012年11月 1日)

親の財は競っても受け継ごうとするが
親の願いを受け継ぐ者は少ない


 北海道の旅をしてきました。単なる観光旅行では無く5月10日に母が亡くなり、葬儀、満中陰法要、初盆と勤めさせていただき、10月3日には先代住職の23回忌を勤めさせてもらい、少し落ち着けたからです。当寺の坊守と妹二人は北海道の帯広で生まれましたので父や母の帯広での大変な御苦労を偲び、生まれ故郷をもう一度訪ねたいとの思いを込めての旅でありました。


 坊守のすぐ下の妹は小樽で年の半分は生活をしていますので小樽のマンションを基点にしての旅でした。飛行機も妹が格安のジェットスター航空を手配してくれました。驚きの安さです。その代わり機内にはテレビは無いし、イヤホンで聴くラジオもありません。機内サービスのドリンクも無く、欲しい人は有料でした。安いだけのことはあると初め思いましたが、人間は今までのあり方が当然だと思うからそう思うだけで、新幹線や列車の旅を考えてみればテレビもラジオもドリンクサービスもありません。それが当たり前なのです。先入観は恐ろしいと思いました。


 小樽から帯広まで特急列車で約3時間10分ほどかかります。北海道はまさにでっかい道だなと感じます。帯広駅でレンタカーを借りて、市役所に行き戸籍上の住所を確認し、カーナビを頼りに参りました。まず初めに先代住職が7~8年勤められた大谷派の帯広別院をお参りさせていただきたく参りました。本堂正面の入口は施錠されていて入れません。別院ともあろうものが何でだろうと思いましたが、妹が端のガラス戸が開いていることに気がつき本堂内に入ることができ、お参りすることができました。父も母も愚痴をこぼすことのない人でしたから苦労されたことはあまり口にされませんでしたが、この別院で大変な御苦労をされたはずなのです。それを思うと何かじ~んとするものを感じ涙がこぼれました。


 帯広別院を後にして、住んでいた番地を訪ねました。当然ながら当時の住まいは無く、建設会社の社屋になっていました。そして驚いたことに55年以上も前のことですが、よく通った銭湯が潰れてはいましたが、男湯・女湯の札がかけられていたのです。深い思い出が次から次へと浮かんでくるのでしょう。坊守はしばらくそこを動けませんでした。


 その後、坊守が小学校1年生だけ通った柏小学校を訪ねました。教頭先生が快く迎えてくださり、資料館にも案内くださいました。90年の歴史を説明してくださり、90周年の記念誌までいただきました。坊守は小学校1年生の時だけなので卒業名簿には当然名前も無いし、何もありませんでしたが、本当に懐かしかったのでしょう。来て良かったと涙して深く悦んでいました。資料によるとパンの給食がなんと昭和16年に始まったとのこと。大正時代に柏小学校は野球で道内優勝を果たし、皆がユニフォームを着ているのにはびっくりしました。帰ってから坊守は早速お礼状を書いておりました。


 父母は戦中は北朝鮮で、戦後は北海道で言葉に表せない大変なご苦労をされましたが、相模原での晩年の父は穏やかな生活の中にお念仏とありがとうの感謝の言葉が絶えませんでした。母は1ヶ月ほどの短い病床生活でしたが毎日毎日子や孫やひ孫、そして近い人たちに看取られながら、皆で恩徳讃を口ずさむ中(母も声にはなりませんでしたがはっきりと口を動かしていました)眠るように阿弥陀様と父のいるお浄土へ還って往かれました。


 父母の御苦労を偲んでの北海道の旅でありましたが、私も同行して本当に良かった。大事なことを気付かせてくれた旅でした。世間では親が亡くなると財産争いが起き、醜い、悲しい、恐ろしい兄弟喧嘩が起き、法事にも顔を出さなくなる例がたくさんあります。その点、姉妹3人は父母の「しっかり仏法を聞かせてもらえよ。念仏怠るなよ」の願いを忘れず、いよいよ姉妹仲良く力を合わせて生きている姿にお浄土の父母も悦んでくださっていると思うのです。寺に戻りお内仏に静かに手を合わせナンマンダブツ、ナンマンダブツと申す中


"親の財は競っても
    受け継ごうとするが
 親の願いを
    受け継ぐ者は少ない"


という言葉が浮かんで参りました。合掌

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