相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『人生の充実感は 愚の自覚にあり』(2012年2月 1日)

人生の充実感は
愚の自覚にあり

 東日本大震災から早くも一年になろうとしていますが、あの3月11日、夢と希望に燃えて朝を迎えたたくさんの方々が、一瞬にしてかけがえのない大切な人を奪われ、全財産を失いました。人生にはこうした予期しない不都合なことが次々と起こります。ですから釈尊は「人生は苦なり」と申されたのであります。


 人は災難や不都合なことが起きますと、そのことから逃れるために宗教に頼ろうとしますが、宗教は災難や不都合な問題を解決するものではありません。宗教は私が苦しんでいるその苦しみの原因を明らかにしてくださるのです。仏法を聴聞して信心をいただき、その苦しみの原因は私の迷いの心にあったと知らせてくださるのです。そして苦しみ悩んでいた私の心を救ってくださるのが宗教なのです。阿弥陀如来はいつでも、どこでも、いかなる場合も私に迷いから目覚めてくれよ。本当の安心を得てくれよと私の本当の幸せを願い通しでいてくださるのです。そうした本当に尊い存在ですから御本尊と申し上げるのです。


 各ご家庭にはお内仏(お仏壇)がございますが、お内仏の中心には阿弥陀如来の御本尊が安置され、その前には燭台(ろうそく立て)、香炉、花瓶が置かれています。その3点を三具足(みつぐそく)と申します。三具足の具足とは大事なものが充分に具わっていると言うことで、阿弥陀如来の徳と願いが具わっていると言うことです。


 ろうそくのお灯明は光であり、阿弥陀如来の智慧の光を表しているのです。私たちは光無くしては、どれだけ目が良くても物を見ることはできません。如来の智慧の光に照らされて、見えなかった私の汚い、弱い、愚かな心の内が見えてくるのです。見えてきますと不思議にお陰様の世界が見えてきて、たくさんの力によって生かされている自分に気づかされるのです。


 お香の香りは老若男女誰しもが、嬉しいときも、悲しいときも、どんなときでも心に安らぎを与えてくれますように、お香の働きは阿弥陀如来のこうした安らぎの心で生活しろよの願いなのです。


 お花は私の心が悦びにあるときはその悦びを倍増してくださり、悲しみにあるときは悲しみを和らげてくださり、そして枯れていきますがその姿に健康や若さはいつまでも続かない、必ず老いて、死は避けられないことを教えてくださっているのです。


 阿弥陀如来は今日1日悔いなく充実して生きろよと願い通しでいてくださっているのです。悔いなく充実して生きると言うことは、賢くなることでも、利口ぶることでも、ましてや虚勢を張ることでもありません。それとは反対に愚者に目覚めることのようです。愚者の自覚のもとに生き抜かれた高僧はたくさんおいでになります。天台宗の開祖伝教大師はご自身を、「愚が中の極愚、低下の最澄」と称されましたし、天真無垢に子供らと遊戯に戯れ、子供だけで無く村のすべての人から敬愛された良寛さんはご自身を「大愚」と申され、浄土真宗の宗祖親鸞聖人はどこまでもご自身を厳しく見つめられ、煩悩具足の凡夫の自覚の元、念仏の大道を歩み続け、「愚禿鸞」と名乗られております。


 俺我俺我の我が強く、愚者にはなかなかなれませんが愚者になりきれば、助けられ、我慢され、許され通しの私でしたとたくさんのお陰様の世界が見えてくるのではないでしょうか。念仏に出会い、愚かなる我に気づき、念仏の道を歩むことが悔いなく充実した悦びの人生を味わえるのでありましょう。合掌

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