相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『愚かなる凡夫の自覚に立つ』(2011年7月 1日)

愚かなる凡夫の自覚に立つと
何事も正しく見 正しく考え
正しく味わえるものです

 たいしたことでもないのに、すぐに腹を立てて声を荒げる人がいますが、心の狭い人だろうなと思ってしまう。声を荒げることはないが、言い方は静かでも自分の考えが正しいと、相手の人間性を冷ややかに否定し、人の意見を聞こうともしない人も悲しい、情けない人だと思ってしまう。共に仏法に触れて欲しいと思います。


 釈尊が悟りを開かれ、その悦び、安らぎの心を人々になんとしても伝えたいと願われ、先ず説かれたことは「人生は苦なり」と言うことでした。人間は表面は幸せそうに見え、苦悩は何も無いように見えても必ず苦悩をいだいているというのです。それはお坊さんでも、大学教授でも、総理大臣でも、サラリーマンでも、男性でも、女性でも、皆何かしらで苦しんだり悩んだりしているのです。ではその苦悩はどこから来るのでしょうか?
それは煩悩の所為だと説かれたのです。それでは煩悩を無くすことができれば苦悩のない人生が開かれるのでしょうか?
その通りで涅槃寂静の境地に至ると説かれました。


 涅槃という言葉は中国語で、釈尊のお生まれになったインドの言葉では"ニルバーナ"と申し、燃えさかる煩悩の火が消えた状態を言うのです。その煩悩というものは、自分の心の中に自分が起こした自分の心、それが煩悩なのです。
自分で起こした煩悩に悩まされ、苦しめられているのです。ですから苦悩の根源は外にあるのではなく、自分の心の内にあると説かれたのです。それでは煩悩を無くすことができるのでしょうか?


 親鸞聖人は
「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(一念多念文意)と仰っておられますが、
釈尊は涅槃の境地に至ることができる八種の正しい道を示されました。
正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八種の正しい道です。そのうち一番大切と思われる正見について考えてみたいと思います。
正見とは何事も正しく見て、正しく考えることですが、大変難しいことです。「心ここにあらざれば視れども見えず、聴けども聞こえず」と申しますし、正しく見て、正しく考え、正しく判断すると言っても、自分の感情で見て、正しいとか間違っているとか判断してはいないでしょうか。自分が正見と思っていることは実は邪見ではないでしょうか。私たちは真理を自覚して正しい見解を持つことは甚だ難しく、金や物や愛や人間関係に執着して物事の善悪を判断してはいないでしょうか。それにも関わらず自分が考えていることが正しいと思うのです。それは邪見であり偏見であります。


 そうした邪見や偏見で自分が正しいと主張するから親子の断絶や、人間関係の亀裂などが生じるのでありましょう。どうぞ浄土真宗を正しく聞法なさってください。愚かな凡夫でありました。自己中心の恥ずかしい私でした。罪深い私ですと気付かされることでありましょう。
そうした自覚に立つと、南無の心が起きてくるのです。念仏申さずにおられなくなるのです。


 正見とは私が仏法をいただいて賢くなって、物事の真理が見えるようになることではなく、仏法聴聞の中に自分がなんと自惚れ、傲慢の強い、汚い執着心で固まった愚かな私でしたと慚愧の念にかられるとき、そこから見えてくる姿、念仏申す中から見えてくる姿、それが正見ではないでしょうか。
聖徳太子が「我必ず聖に非ず。彼必ず愚に非ず。」と申された心境であります。合掌

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