相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『何の為に生きる この事を問わずして 我が人生に納得はない』(2009年11月 1日)

何の為に生きる
この事を問わずして
我が人生に納得はない

 不可思議な偶然の中に賜った命。この尊い命は死を迎えることも必然であります。生も死も賜ったもので私の計らいは通じません。私の人生は昨日は無いし、明日は可能性はあっても必ずあるとは言えません。そうだとしますと今日という日はなんと大切な日なのでしょう。こんな大切な1日を悔いなく生き甲斐のある生き方をしているでしょうか。静かに我を振り返るとどうでも良い事にああでもない、こうでもないと争い、細やかなことに損した得したと目くじらを立てている私でした。他人から褒められれば有頂天になり、他人からけなされたり批判でもされると途端に落ち込み、悔しくて悔しくて2日も3日も眠れなくなる私なのです。常に他人の顔色を窺い、他人の批判を気にしながらの生活なのです。自分を見失った情けない空しい生活でした。そんな私の生き方に気付かされますと、真の生き甲斐のある生活を見つけなければ生んで下さった両親や案じてくださる方々に申し訳ない思いでいっぱいになるのです。そこに何の為に生きるということを問わずにはおれなかったのです。
 私たちの人生には楽しい事も嬉しい事もありますが、悩み苦しみも種々経験します。どうにも自分で解決できない悩みにぶつかりますと私たちはその原因を政治が悪い、社会が悪い、あいつが悪いと外に外に原因を探しますが、釈尊はそうではありません。悩み苦しみの原因はすべて私の内にあるのです。煩悩の所為であると教え下されたのです。親鸞聖人も「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(一念多念文意)とご指摘くださいました。まさに私のことであります。聖人の教えに耳を傾けるとき今まで気づかなかった、今まで全く見えなかった私が見えてくるのです。なんと自己中心の恥ずかしい、悲しい、煩悩のかたまりの私でしたと見えてくるのです。頭を下げざるを得ないのです。懺悔の念仏がナンマンダブツ・ナンマンダブツとこぼれるのです。不思議に懺悔の念仏がこぼれますと、お陰さまの世界が見えてくるのです。今までは俺が頑張り皆を助け、許してきたと思っていたが、そうではなかった。私のような者をよくぞ見捨てることなく助け、許し、守り続けてくれたものです。有難いことであります。悦びの感謝の念仏がナンマンダブツ・ナンマンダブツとこぼれるのです。
 そこに私の人生眠れぬ日もあった。死にたくなる日もあった。しかし阿弥陀如来に出会えた。如来の寿と光に出会えた。念仏申す身にさせていただけた。有難いことです。生きてきてよかった。私の人生悔いはありませんと言い切れるのです。してみますと、何の為に生きるのか?その答えは仏法を聞かせていただく為でありました。念仏に出会う為でありました。ナンマンダブツ・ナンマンダブツ合掌

 

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