生老病死を有難く味わう
人生の悦びここに有り
食生活の改善、医学の進歩、保健衛生の向上、生活環境の改善等により、日本人の平均寿命は世界のトップレベルになりました。人生五十年から人生八十年となった今ではただ長生きではなく、健康で元気という条件付きの長生きが追求されています。しかし現実は年と共に体の自由を失い、歩くことも困難になり、耳も遠くなり、若い者から邪魔者扱いをされ、こんな筈ではなかったと愚痴をこぼすのです。真面目に世の中、人のために励んできたのになんで私一人がこんな病気で苦しむのか、誰も見舞いに来ない、誰一人優しい言葉もかけてくれないと嘆き、経験したこともないのに何故か死ぬのが恐いとおののき、ただ意味もなく生きながらえている。そして老老介護が現実の姿なのです。そこには生きることに悦びと輝きを完全に失ってしまっているのです。そのようなことで生きる価値があるのでしょうか?
長生きは出来ても幸せとは言えないと思うのです。釈尊は生・老・病・死は人生の四苦であると申されました。偶然の中に賜った命ですが生きると言うことは大変なことです。若さはいつまでも続かず必ず老いるのです。健康で一生を終えることもまず有り得ず病気になるのです。そして死は避けられないのです。これが逃れることが出来ない自然の姿であるのに不老不死を考えようとする。老・病・死が私を苦しめている。老・病・死が無ければなんて馬鹿なことを考える。これが迷いなのです。いよいよ悩みを深めるのです。老・病・死が私を苦しめているのではなく私を救ってくださっているのではないでしょうか。老・病・死のお陰で私は生かされているのです。老・病・死が無かったら地球上は人で埋まってしまうのです。身動き出来なくなるのです。食べ物も私の口には入らないでしょう。
老・病・死をしっかり正しく受け止めさせていただくことが大切です。それには仏法聴聞をさせていただくことです。仏法には明日はあるまじき候と申します。人生に昨日はないのです。明日も無いのです。可能性はあるかもしれませんが明日は無いと考えるのが仏法です。明日は無いのです。それなのに朝に目が覚めたのです。無いはずの今日を迎えられたのです。「あぁ有難い。今日も命を賜ったナンマンダブツ」お念仏がこぼれます。吉川英治氏が朝目が覚めて小便をされた。あぁ有難い南無阿弥陀仏とお念仏を申されたと聞いていますが、こうした心境なのでしょう。賜った命、賜った今日という日は昨日亡くなっていたとしたら、今日という日はとてつもなく大切にしたい日であります。そのことに気が付かされれば今日一日精一杯自分の出来ることをさせていただく気持ちでいっぱいになるでしょう。
人に褒められようと褒められまいと
人に認められようと認められまいと
人に馬鹿にされようがされまいが
自分なりに精一杯させていただく。そして睡魔におそわれ床につくとき、「今日もお陰様で一日励むことが出来ました。ナンマンダブツ」と床につかせていただくのです。幸せを感じます。
背伸びすることなく自分なりに今日を精一杯生きること、その積み重ねが永遠に生きることに繋がる。無量の寿を生きることになるのでしょう。もう一度人生をやり直せたらなんて考えたこともありましたが、お念仏に出会えた今、私の人生これで良かった。悔いはない。人に褒められることもなく、なんの手柄も立てられず、名声を博することも出来なかったが、私は私で良かった。長生きできるか分かりませんが、お念仏の中に深く生きることは出来そうです。嬉しいことです。有難いことです。ナンマンダブツ・ナンマンダブツ。合掌