相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『合掌の姿は美しい 合掌の心は尊い』(2008年11月 1日)

あなたは日に何度 合掌をしますか
合掌の姿は美しい 合掌の心は尊い

 青少年の犯罪や無軌道な行いにはほとほと閉口し、心ある人はどうしたら良いのか頭を悩ませています。青少年も然りですが、大人社会にこそ連日連夜自分勝手で無分別な悲しい恐ろしい犯罪が横行し、悪化の道を辿り、このまま行けば日本の社会はどうなるのかと誰もが心を痛めております。どうしたらよいのでしょうか?こうなった原因を考える必要があると思います。
 日教組の教育方針に原因があるとか、道徳教育が失われたことが原因であるとか、政治が悪いから、社会が悪いからとか種々言われますが、私は宗教心の欠如こそが最も大きな原因と考えるのです。なぜ宗教心が欠如したのでしょうか?私は家族制度の崩壊にあると思うのです。核家族化したことにより家庭からお内仏(お仏壇)が失われたことが最も大きな要因だと思うのです。
 家族制度にあっては家の中心に心のよりどころとしてお内仏(お仏壇)が安置され、そこには何かにつけ合掌の生活があります。合掌のある生活には目上の人を敬う心がおこります。夫婦、親子、兄弟の中にも一日の始まり、終わりには「おはようございます」「おやすみなさい」の挨拶があります。初物や珍しいものが手にはいると、まず仏様にお供えをし、それから感謝していただいたのであります。そして最も尊いことは毎月の命日や祥月命日には手次寺の住職に足を運んでいただき、家族揃ってお経をいただき、法話をいただいたのです。そうして家族で先祖を偲び、先祖の願いを思い、仏法を語り合ったのです。法話をいただき、仏法を語り合うとき、自分の本質が知らされる思いがします。「俺が頑張っているから」「助けているから」「私が許しているから」「我慢しているから」と思っていたが、助けられ、許され、我慢されている私でしたと仏法をよくよく耳にし、心を見つめたとき、今まで何とも思わず、時には誇らしげに言ったり行ってきたことが何とも恥ずかしいことであったかと知らされるのであります。
 そこに懺悔の念仏が自然とこぼれるのです。懺悔の念仏がこぼれますと、不思議に今度は「そうしたお前を見捨てはしない。必ず救うぞ。安心しろよ」の阿弥陀如来の大悲のお叫びが聞こえてくるのです。有難いことに阿弥陀如来は何時でも何処でも如何なる場合でも摂取不捨の光明で私を照らしどおしでいてくださったのです。報恩感謝のお念仏を申さずにはおられません。そこには不安のない、悦びと安心の生活があります。こうした生活には犯罪の起こる可能性は低いのではないでしょうか。
 それが核家族化してまいりますと、お内仏を安置することが少ないので、心のよりどころが持てないのです。事情によって核家族化しても家の中心に心のよりどころとしてお内仏を安置することが大切ですし、安置することをお勧めいたします。心のよりどころを失いますと、手を合わす生活が少なくなります。そうしますと三度の食事の時もいきなり食卓に着き、いただきますも言わずに食べ始め、うまいのまずいの文句を言うのではないでしょうか。合掌の生活が少なくなりますと、目上の人を敬う心もなくなり、夫婦、親子、兄弟の間に「おはよう」もなければ「お休み」の挨拶もなくなるのです。そうして法を語り合うこともないので、家族がバラバラになり、夫は夫、妻は妻、親は親、子は子、それぞれが勝手な行動に走り、自分勝手な分別のない行動を取るようになるのは当然のことではないでしょうか。家族制度の復活は難しくとも、心のよりどころとしてお内仏を家の中心に安置して、合掌のある家庭を築きたいものです。
 私は礼節を重んじ、恥を知ることが日本の文化だと思います。礼節を重んじ、恥を知ることは合掌の生活の中に生まれてくるのではないでしょうか。親鸞聖人もそのことを教行信証の信の巻に

二つの白法(びゃくほう)あり、よく衆生を助く。

一つには慙(ざん)、二つには愧(き)なり。

「慙」は自ら罪を作らず、「愧」は他を教えて作(な)さしめず

「慙」は内に自ら羞恥す、「愧」は発露して人に向かう。

「慙」は人に羞(は)ず、「愧」は天に羞ず。これを「慙愧」と名ずく。

「無慙愧」は名づけて「人(にん)」とせず、名づけて「畜生」とす。

「慙愧」あるがゆえに、すなわち父母・師長を恭敬す。

深く深く味わいたいものです。お内仏を心のよりどころとして仏法聴聞に励み、合掌念仏の中に、恥ずかしい私でした。煩悩具足の私でしたと知らされることが、礼節を重んじる人間形成に繋がると思いますし、犯罪のない平和なる家庭社会が築かれると思うのであります。合掌

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