近頃では珍しく65歳で事故死をされた方の初盆に30名ほどの親類、友人等がお参りに集まっておられました。読経のあと私は「皆様はお盆を迎えてどんな気持ちでお墓参りをしますか?」と尋ねました。それぞれに思い思いの考えが出されました。その時の皆さんの思いを要約しますと、
1)亡くなった人の霊を慰めるために墓参りをするという人。
2)親不孝であったことを詫びる気持ちという人。
3)自分の現況を報告し、これからも家族の幸せを守って欲しいと祈ると言われる方。
だいたいこうした思いが語られましたが、少し間をおいて50歳代と思われる男性が手をあげて「私はそんな皆さんのような気持ちを持ったことがない。」と言われるのです。「私は墓参りをしないと何か罰が当たるような気がして、それで墓参りをするのです。」と言われるのです。それを聞いた私は「なるほどよく分かる気がします。そう思われる方も多いかも知れませんね。」と話しながら、私はその方に申しました。「残念ながら親や先祖はあなたが墓参りをしようとしまいと、墓石を蹴飛ばされようと、何をされようと、あなたに罰なんかあてませんよ。それよりも何をされようとあなたを守り通しなのが、そしてあなたの幸せを願い通しなのが親じゃないですか。」と話しますと、居合わせた人たちも皆笑いの中になるほどと頷いて、それから様々な質問が飛び出しました。
まず出たのはお盆は迎え火を焚いて仏様は家に戻ってきているのだから墓参りはする必要がないのじゃないですか?との質問でした。私達の親や先祖はお浄土に往生されたのです。お浄土は大変美しく、苦しみもまったく無いところです。そんな素晴らしいところからこんな汚れた火宅無常の世界に戻る気がしますかね?私はお浄土に行かれた先祖をこんな悩み苦しみの汚れ多い穢土にお呼びする気持ちにはなれません。ですから浄土真宗では迎え火を焚くと言うことはしないのですと応えると、質問をされた方はまた住職に一本やられたという感じで口をポカンと開けていました。
私達の先祖はお浄土に往生していますが、遺骨はお墓に埋葬しておりますので故人を深く偲んでお墓参りはいたしますが、先祖の霊を慰めるとか、私の幸せを守ってくれと祈るようなことはいたしません。私がお墓にお参りをし、合掌お念仏申すとき、思うことは亡き親のご恩なのです。大変な御苦労をおかけしたな。時には眠れぬ思いもさせてしまった。申し訳ありませんとナンマンダブツ・ナンマンダブツと懺悔の念仏がこぼれてきますと、そのご恩に報いることを知らない、ご恩に報いることを何一つできない恥ずかしい私でしたと気付かされるのです。すると親の懐かしい声が聞こえてくるのです。
人間として生まれることができたのに大切なことを忘れていないか?
法を求めよ!聞法怠るなよ!
と親のあついご催促の声が聞こえてくる思いであります。ナンマンダブツ・ナンマンダブツ
合掌