相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『如来の声』(2007年5月 1日)

悩んで 悩んで 仏の声を聞いてみた
見えないものが見えてきて
心配するなと 嬉しい仏の声がした

 宗教とは私の人生の心の安らぎと真の幸せを味わう宗となる教えであり、一般的には人はそのために信仰を深めると言いますが、浄土真宗では信心をいただくと申します。信心をいただき、念仏申す身になれば、心の安らぎと幸せを味わえるはずであると思うのですが、私には安らぎと幸せを感ずるどころか、次から次へと予期せぬ事や思いもよらぬ事によって、悩み、苦しみ、迷いが起こってくるのです。なかなか喜びが味わえないのです。
 唯円が歎異抄に念仏申す身にさせていただいたが、踊躍歓喜の心が起きてこないと述懐されていますが、私もそうした心境です。それでは仏法聴聞は必要ないのかと言いますと、決してそうではなく、私は浄土真宗に出会えなかったら何をしていたか分からないし、どんな人生を歩んでいたかそら恐ろしい思いです。悩み、苦しみが次から次へと起こってくるおかげで、仏法に耳を傾けようとする心がおこるのです。曽我量深先生が「人生の苦しみはすべて、如来の激励である」と申されましたが。まさにそうした思いであります。その悩み、苦しみのおかげで仏法に出会い、仏法を聴聞させていただけるのです。今まで見えなかったものが見えてくるのです。「なんと恥ずかしい私でした。煩悩具足の凡夫でありました」と見えてくるのです。そして今まで聞こえなかったものが聞こえてくるのです。阿弥陀如来の願いが聞こえてくるのです。落ち込んでいるときには励ましの声となって、失敗をしたときは慰めの声となって、有頂天の時はお叱りの声となって、厳しい中にも温かく優しい声となって安心しろよと呼びかけ続けてくださる如来の声が聞こえる思いであります。合掌

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