相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『老体を迎えられたことは有難い 念仏申す身になれたことはなお有難い』(2007年3月 1日)


老体を迎えられたことは 有難い
念仏申す身になれたことは なお有難い

 傘寿を迎えられた方が、「知らぬ間にこんな年になってしまった。歩行も困難になるし、新聞も読めない。酒もすっかり弱くなった。年は取りたくないもんだ。」と言われる。長生きはしたいが年は取りたくない。こんな矛盾はない。人間はいつまでも若く健康でありたいと思うのですが、そんなことは有り得ない。若さはいつまでも若くはない。必ず老いる。健康はいつまでも続かない。必ず病気になる。生あるものは必ず死を迎えるのです。分かっているのにそれを自分の都合の良いようにしたいのです。それが迷いなのです。何事も自分の都合の良いようにしたいその心が苦しみを作るのです。
 しかしその苦しみ、迷い、悩みが仏法を聞かせていただく機縁となるようです。財力や権力をつかめば幸せであると思いこんでいたが、結局金や権力によって泣かねばならない人生であります。
 蓮如上人が「まことに、死せんときは、かねて頼みおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあいそうことあるべからず」(お文 一帖目 第十一通)と仰っておりますが、まさにその通りであります。
 それでは本当に頼みとなるものはあるのでしょうか?親鸞聖人は「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。」(歎異抄 後序)とお示し下されました。「ただ念仏のみぞまことにておわします。」とおっしゃられたその念仏の心を何遍も何遍も聞かせていただきますと、如来の本願が聞こえてまいります。他人のことはどうでも良く、自分の都合しか考えない自己中心の何とも情けない、恥ずかしい、恐ろしいこんな私をも、「心配するなよ必ず救うぞ。救わずにはおかない。」と誓ってくださる如来のお心がかたじけない思いで聞こえてくるのです。ナンマンダブツ・ナンマンダブツと念仏申さずにおれなくなります。念仏申す身にさせていただくとき、迷う必要がなかった。唯この念仏の道を歩めば良かったと、浄土へ向かっての人生を歩ませていただけるのであります。しかし、相変わらず悩み、苦しみはなくなりませんが、お念仏を悦ぶ身にさせていただいた今、不思議に迷いはありません。往生安楽国への人生の旅を楽しませていただける思いであります。合掌

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