相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『尊い命を深く味わう』(2006年1月 1日)

不可思議な 恵みのなかに あずかりし 尊き命 深く味わん

 明けましておめでとうございます。平成18年の元旦を迎えることが出来ました。この事はただ事ではない望外な喜びであり、この上ない幸せです。ですから"おめでとう"と挨拶を交わすのでありましょう。
 私は毎年1月1日の修正会(しゅうしょうえ・正月の法要)を勤めさせていただきますと、来年はこの修正会を勤めることが出来るのだろうかとしみじみと思うのです。よく、俺の命とか俺の健康と言うことを耳にしたり口にいたしますが、本当に、"俺の命""俺の健康"と言えるのでしょうか?呼吸が止まったら死ぬのですが、この呼吸は意識して行っているのではありません。意識しても出来ますが、意識して行ったら10分と出来るものではありません。それが寝ていようが、何をしていようが無意識の中に今日まで規則正しく繰り返されてきたのです。とても私の力だとは言えません。健康のために1日に30種類の食物を摂取しようと贅沢なことを言って、いつも美味しい、旨いと食事をしていますが、これも自分の力でしょうか?決してそうではありません。その証拠に風邪をひいて高熱が出たりしたら、それだけでどんな好物ものどを通らず、受け付けないではないですか。それよりも太陽の恩恵なくして、1日も生きることは出来ないのです。あの太陽は雨が降ろうが、雪が降ろうが、雲の彼方では輝いてくださっているのです。このように味わせていただきますと、とても"俺の命""俺の健康"とは言えません。全てはお預かりいたした命であり、健康であります。
 俺の命なら、どう扱っても良いでしょうが、お預かりした命ですから大切に大切に扱わなくてはいけませんし、返せよの催促が来ましたら、今日にでも返さなければならないでしょう。ですから今日のこの1日は大変尊い大切な1日なのであります。その尊い1日をどう過ごしているでしょうか?いつも生き生きとした命を抱いて、光り輝く生活をしているでしょうか?時には充実したそうした日もあるでしょうが、釈尊が「人生は苦なり」と申された通り、人生は苦の連続です。ある時は病気で苦しみ、ある時はお金のことで頭を抱え、ある時は人間関係で悩み、その他雑多な悩み苦しみがあります。こうした苦しみに遭遇しますと、人は占いに頼ったり、方角に囚われたり、文化人だ、学者だ、著名人だと言われる人ですら、宇宙旅行が出来る時代を迎えても、大安だ、友引だと六曜に振り回され、怪しげな宗教に流されたり、まさに暗闇を手探りして歩んでいるのであります。
 冬は夜明けが遅いのですが、しかし夜は明けます。日の出とともに草木も目覚め、小鳥はさえずり、一面明るく輝きを見せてくれます。そんな中、静かに"いただきます""ありがとう"と深く呼吸させていただきますと、気持ちがよいものです。生かされている実感を覚えます。これと同じように人生の暗闇を手探りして歩んでいる私に、如来の智慧の光明が差し込んでまいりますと、「なんだ、迷う必要は何もなかった。安心してこの道を歩めばよいのだ。如来様が何時でも何処でもどんな場合でも優しく見守って下さっていました。」と心安らかになれる思いがいたします。
 親鸞聖人は「無碍(むげ)の光明は無明(むみょう)の闇を破する慧日(えにち)なり」とお示し下されました。この事は「私のように何かにつけて迷い、悩み、苦しむ衆生を必ず救いとると誓われる阿弥陀如来の智慧の光明は、私の無明という一切の苦しみを生む根源である煩悩を打ち破って下さる太陽の暖かい恵みの光であります。」とこのように味わせていただいておるのです。有難いと安心の気持ちで、ナンマンダブツ・ナンマンダブツとお念仏が自然とこぼれます。
 本年も仏法聴聞に励み、念仏の大道をしっかりと迷わず歩んでまいりたいと思うことです。

合掌

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