相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『助けられ、我慢され、許されながら、今年も終わる』(2004年12月 1日)

助けられ
我慢され
許されながら
今年も終わる

 仏法を聞かせていただくのは、偉くなるためでも、利口になるためでもありません。本当の自分に出会うために、自分の本当の姿を知らせてもらうために聞かせていただくのでしょう。仏法を聞かせていただかないと自分が見えてこないのです。自分が見えないから、「俺は正しい」「俺が助けている」「俺が我慢している」「俺が許している」のだと、俺が俺がの我で固まり、どうでもよいことに怒りの炎を燃やし、ささやかなことに損した得したと目くじらを立て、他人に当たり散らすことになるのでしょう。仏法をよくよく聞かせていただきますと、自分の心の奥が見えてくるのです。他人が見ていなければ何をするか分からない私でした。常に不平、不満、怒り、愚痴の心をたぎらせ、他人様にはとても見せられない汚い心の持ち主でした。他人を困らせ、泣かせてばかりいた高慢な私でしたと見えてくるのです。そこに不思議と


助けているのではない。助けられていました。


我慢しているのではない。我慢されていました。


許していたのではない。許されどおしでした。



と、たくさんのお陰様の世界が味わえてくるのです。ご恩の世界が見えてくるのです。心安らかな、心和む世界が開かれてくる思いであります。親鸞聖人はお陰様の世界を、ご恩の世界を、


如来大悲の恩徳は、身を粉にしても報ずべし


師主知識の恩徳も、骨をくだきても謝すべし



と、味わわれたのでございます。今年1年を静かに反省をして、来る年も仏法聴聞に励みたいものです。

合掌

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