盆迎へ
大事な人を
偲ぶれば
自然といづる
念仏の声
"生活に追われ、自分のことしか考えず、ふる里のことも、親のことも忘れていました。先日久しぶりに母を想い、墓参りをしました。ふと気が付くと、いつの間にか手が合わされ、自然とお念仏が口からこぼれていました。和やかな心にさせていただきました。親は本当に尊いなぁ有り難いなぁと思いました。亡くなられた後までも、私を人間らしい人間にお育てくださるのでした。"
これはよく日曜礼拝においでくださるある聞法者の言葉です。日頃は仕事に追われ、生きるがため、食うがために生活に追われ、あるいは遊ぶことに忙しく、大切な方を偲ぶことも忘れ、手を合わすこともなく、宗教とは無縁の生活をしている方でも、年に一度のお盆ばかりはお墓参りに出かけられるようです。お墓を掃除して、花を捧げ、お線香をたいて、先祖を偲び、先祖がそこにいるかのごとく何かを語りかけ、手を合わせてお参りをされることと思います。ところで先祖を偲ぶとはどういう事でしょうか?
ありし日の楽しかったこと、悲しかったことを思い出すことも、親は私を育てるのに大変な苦労をしてくださったんだなぁと親の苦労に心から感謝することも、親には夜も眠れぬほど、心配をかけて申し訳なかったと涙して懺悔することなども偲ぶということでありましょう。しかしもう一つ大事なことは親の願いを聞くと言うことです。私が親を忘れていても、親は一時も忘れることなく私を見守り通しなのです。私の幸せを願い通しなのです。
幸せになれよ! 安らぎの心で生活しろよ!
聞法を怠るなよ! お念仏を忘れるなよ!
と願い通しなのです。その願いに気が付かせていただくことが、偲ぶという大事な心であります。この事がお盆を迎える大切な心とも言えるでしょう。
合掌