相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『本当に尊いものとは』(2004年1月 1日)

愚かなる
我が身知れよと
涙する弥陀の
大悲の
深き尊さ

 浄土真宗の御本尊は阿弥陀如来であります。阿弥陀如来は色も形もないのでありますが、色も形もないところに手を合わせて合掌することはしにくいので、方便法身(ほうべんほっしん)のお姿として「御木像(おもくぞう)」や「御絵像(ごえぞう)」として表しているのです。
 御本尊とは本当に尊いものと言うことであります。私たちの生活の中には尊いものはたくさんあります。健康も財産も家族も友人も、しかしそれらはいつまでも有るものではありません。必ず崩れ、必ず失うものであり、本当に尊いとは言い難いのです。阿弥陀如来はいつでも、どこでも、壊れることもなく、失うこともなく、私に常に真実に目覚めてくれよと働き続けてくださっているのです。ですから、尊さの中の本物ということで御本尊と申すのであり、阿弥陀如来のことであります。阿弥陀如来は「南無阿弥陀仏」という名号となって本当に尊い働きを私に働き続けてくださっているのです。その尊い働きをいただいて、尊い働きに気づかせていただくとき、ナムアミダブツ・ナムアミダブツとお念仏申さずにおれないのであります。お寺の本堂もご家庭のお内仏(お仏壇)も阿弥陀如来の御本尊を中心とした本当に尊い働きが具体的に表現されている大切な場所なのです。ですから、御本尊がないといくら高価な仏壇でも単なる箱にすぎないのです。
 それでは本当に尊い働きが表現されている寺の本堂のお内陣、各ご家庭のお仏壇をごらんいただきますと、必ず燭台(鶴亀のロウソク立て)、香炉、花瓶があります。これを三具足(みつぐそく)と申します。三具足の具足とは大切なものが十分備わっているという意味です。
 お灯明(明かり=光)は阿弥陀如来の智慧の働きであります。私たちはいくら視力を誇っても光なくしてものを見ることはできないのです。阿弥陀如来の智慧の光に照らされて見えなかったものが見えてくるのです。助けていたのではない。我慢していたのではない。許していたのではなかったのです。助けられ、我慢され、許され続けて、たくさんの大きな大きなお陰様によって生かされていたのでありました。智慧の光に照らされて、与えられた命の尊さに気づかされるのであります。
 お香の香りは阿弥陀如来の徳の働きであります。お香の香りは私の不安な心に安らぎを与えてくださるのであります。お香の香りをいただくとき、老若男女、善人も悪人も、賢者も愚者も、すべての人が心落ち着ける安らぎの世界を味わえるのであります。
 お花は阿弥陀如来の慈悲の働きであります。お花は私が喜びにあるときはその喜びを倍増させてくれます。苦しみにあるときはその苦しみを和らげてくださるではありませんか。その花はすぐに枯れてしまいます。その姿に健康はいつまでも続かない、若さは必ず衰え、そして死を迎える。この大切な真実を教えてくださるのであります。お花はそうした人生を、喜びの時も悲しみ苦しむときも1日1日を大切に生きることが尊いことだと教えてくださっているのであります。

 輝かしい新年を新しい気持ちで迎えることができました。本当に尊い働き(御本尊)を心のよりどころとして今年も1日1日を大切に生きていこうではありませんか。それは決して虚勢を張るものではないのです。賢くなることでもなく、利口ぶる必要もないのです。利口ぶるから苦しむのです。そのまま、そのまま、安心して愚者になることです。愚者であるがゆえにお陰様の世界が見えてくるのです。皆様よくご存じの三帰依文(さんきえもん)の

人身受け難し今すでに受く


仏法聞き難し今すでに聞く


という世界がありがたく尊く味わえるのであります。こうした私の思いを

愚かなる 我が身知れよと 涙する


弥陀の大悲の 深き尊さ

とうたわせていただきました。合掌

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