相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『どう生きるか』(2003年5月 1日)

どう生きるか
この事を問わずして
人生にうなずきはない!

 人間として生まれることが出来た事をどう思うか?
どれだけ驚いても、どれだけ喜んでも、どれだけ感謝感激しても足りない。不可称・不可説・不可思議としか言いようのない中にいただいた人生です。そんな尊い人生を真に生き甲斐のある生活を送っているだろうか?目先の事にとらわれ、どうでも良い事に"あぁでも無いこうでも無い"と争い、ささやかな事に損した得したと目くじらを立てている私ではないでしょうか?他人から誉められれば有頂天になり、他人からけなされたり批判でもされると途端に落ち込んでしまう。そんな事で常に他人の顔色をうかがいながら、他人がどう思うかと気にしながらの生き方をしているのではないだろうか?そんな自分の生活を振り返ったとき、むなしい人生だなぁと悲しまずにはおれないのです。
 むなしい人生を感じられたのは私だけではないのです。親鸞聖人も二十年間に亘り比叡山で命がけの学問、修行に励んだけれども、煩悩を捨てきる事が出来ず、むなしく悶々と苦しまれたのです。しかし親鸞聖人には法然上人との出会いがあったのです。この出会いが親鸞聖人を救ったのです。法然上人のお念仏を喜ぶ信心の生活態度、上人の語られる御法(みのり)によって親鸞聖人のむなしく渇いた心に砂地に雨が染みるがごとく落ち着きと安らぎ、潤いを与えたのです。ここに親鸞聖人の念仏の大道という新しい求道の第一歩が始まったのでしょう。
親鸞聖人は釈尊の説かれた念仏の大道がインド、中国、日本と三国に渡り、七人の浄土教を説かれた高僧方を経て、今私に届いているこの事実を深い深い大きな感動として悦ばれたのでありましょう。その悦びの感動の表現が

弥陀の五却思惟の願をよくよく案ずれば

ひとへに親鸞一人がためなりけり    

であります。
 私も親鸞聖人のご苦労のお陰により念仏の大道を歩まさせていただく深い大きなご縁をいただく事が出来たのです。一人静かに自分の人生を振り返るときナンマンダ仏ナンマンダ仏と自然とお念仏がこぼれるのです。そんな中に私の人生、他人よりも偉くなれなかった。大きな業績も残せなかった。他人から特別誉められる事もなかった。それどころか失敗や悩み苦しみの多い人生であったがお念仏を喜ぶ身にさせていただき、阿弥陀如来の必ず救うぞとの誓いの中にある私に気付かされるとき我が人生に悔いは無しとうなずける思いであります。

合掌

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