相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『元旦に思う』(2003年1月 1日)

明けましておめでとうございます。
新年を迎えますと誰しもが『おめでとうございます』と挨拶を交わします。
考えてみるに何がおめでたいのでしょうか?
死んでもなんの不思議もない私が、新しい年をまた迎えることが出来たという喜びがあるからでしょうか?あるいは今年こそ私にとって良きことが待ち受けているであろうと期待してのことでしょうか?
しかし私に於いては62回の元旦を迎えた経験から人生を振り返ったとき、後悔の念ばかりが起こってきます。
あんなこと言わなきゃ良かった・・・
あんなことしなけりゃ良かった・・・
あれもしよう、これもしようと計画を建てたがなかなか思う通りにはならなかった・・・
政治に振り回され、バブル経済の崩壊に振り回され、不安と恐れと後悔の念がぬぐい去れないのです。
そう思うと

              『元旦や冥土の旅の一里塚
                めでたくもありめでたくもなし』


一休さんの詩が何か変に頷けるのでありますが、私は元旦が"めでたくもあり、めでたくもなし"という心境では嫌だなと思うのです。心から「おめでとう」と言いたいのです。
どうしたら心から"おめでとう"と言えるのでしょうか?

 人生寿命が延びた、長生きできるようになったと喜んでいますが、私は決して人生が長いとは思えないのです。あっという間に62年間生きてきました。これから先あっという間の"あ"の字も生きれないのかと思うと短い人生であります。
そんな短い人生ですから、急がなければならないのです。ではなにをどう急ぐのか?
 私はなんのために生まれてきたのか?どこへ向かって歩んでいるのか?そのことをハッキリさせるために私は急がねばならないのです。
そして私は人間として生まれてきて良かった。素晴らしかった。有り難かったと心から思いたいのです。それではどうしたら心から思えるのでしょうか?
物質、経済に恵まれれば思えるのでしょうか?他人より偉くなったり権力をつかめば思えるのでしょうか?そうではないはずです。
自分自身の本質、本当の心に気付かされたとき、そう思えるのだと思います。
何故なら、自分の本質、本当の心に気付かせていただきますと、不思議とそこに阿弥陀如来の慈光に照らされていた、如来の必ず救うぞ見捨てはしないぞとの御手の中にいだかれていた私であったと気付かされるからであります。そこに心から安らぎを感じ、私は人間として生まれてきて良かった、有り難かったと思えるのであります。

 どうしたら自分の本質に気付くことが出来るのでしょうか?
昨年は先代住職の13回忌の法要をつとめさせていただきました。御法事は何人のためにつとめるのでしょうか?亡き人の供養でしょうか?年忌の忌の字を考えてみてください。
「忌」という字は"いみきらう"と言う意味です。辞書をひもとくと"いみきらう"の他に"恐れる""憎む""いましめる"とあります。「忌」の字を分解しますと"己"の"心"となります。

忌み嫌い、恐れ、戒めなければならないのは己の心と言うことでしょう。

ですから年忌をつとめるうえで大切な心は、亡き人を偲び、自分を見つめ、仏法を聴聞させていただく中に私はたくさんの方々に助けられ、我慢され、許され続けていたのだな・・・それなのに自己中心の情けない私であったと我が心を戒めることなのでしょう。
そのことが自分の本質に気付く、目覚めると言うことなのだと思います。
自分の本当の心に出会う。本当の心に目覚める。そのために御法事はつとめさせていただくのであります。

 しかし私の本質に気付かされれば、目覚めれば、悩み・苦しみがすべて無くなり、生きてきて良かった、有り難かったと思えるかというとそうでも無いのです。
本質に気付いても煩悩具足の私は、一時は仏のような心にはなれても、すぐに現実の生活に心乱れるのです。仕事のこと、経済のこと、家庭・家族のこと、病気のこと、人間関係のこと、様々な苦しみ悩みが起こるのです。
起こるのですが、仏法聴聞の中に自分の本質に気付かせていただいた私は自然とナンマンダ仏ナンマンダ仏とお念仏申さずにはおれないのです。そこに仏の声が聞こえてくるのです。
そんなに肩肘張らなくても良いよ。もっと楽になれよ。私がおまえの苦しみ悩みをすべて引き受けるよ。だから泣きたければ素直に泣きなよ。嬉しかったら心から笑えばいいよ。肩の荷を下ろせばいいよ。と優しく聞こえてくるのです。そんな心境の中に新年を迎え



     憂きことも 佛にあづけ 身もかるく


            迎へし春は 心やすらか


と詠わせていただきました。

合掌

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